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食事で一番おいしいのは、味よりもストーリーではなかろうか

●食事で一番おいしいのは、味よりもストーリーではなかろうか

どうも、早乙女です。

今回は、食事で一番おいしいのは、味よりもストーリーではなかろうか、というテーマでお話しさせて頂きます。

音声はこちらから。

驚くほど美味しくなさそうだけど美味しかった

先日、キャンプに行きました。

そこでは設備が思ったよりも整っていなくて、想像以上の困難がたくさんありました。

例えば、水が使えないことです。

キャンプに行っていて、分かっている人が、施設について調べていなくて、施設に行ったら、炊事場であるとか、水とかが思ったよりも使えなかったようで、というよりも何一つ使えなくて「大自然でのキャンプを満喫する」ということになりました。

具体的には必要なものは全部自分で調達して、どうにかするってことです。

そうなると使える水がなさ過ぎたので、まず水を買いに行くことになりました。

しかし世間は大混雑、2班に分かれて買いに行ってはもらったんですが、買い出しに行った人が、帰りがもはや2~3時間後になってしまうと、それを待っていては夕食が22時になってしまうということで、食材の下準備のために残っていた自分たちは、今あるものでどうにかすることになりました。

水は一切、いえちょっとだけはあったんですが、ほぼないに等しかったので、他のキャンプの人にヒアリングをして徒歩20分のところの湧き水をとってくることにしました。

手洗いや洗い物専用です。

流石に湧き水もものすごくキレイとは言い難くて、実際汲んできたらちょっと濁っていたので、手洗いや洗い物専用でした。

しかし水がなければほとんどの調理が一切進まないので、とにかくどうにかする必要がありました。

問題は水がないと一切の調理ができないということで、あらゆる調理を断念していました。

そこで、ある種の諦めが生まれました。

水はなくとも2Lの午後の紅茶はあったので、午後の紅茶で洗うことにしたんです。

お米がまさかの無洗米でなく普通の精米だったので、午後の紅茶で洗うことにしました。

でそうなると他の野菜も踏ん切りがついて、午後の紅茶で洗うことになりました。

そうして洗うのに加えて、残り少ない飲んでいた500mlとかのペットボトルの水をかき集めることで、飯盒でお米を炊くギリギリの量まで集められたので、お米を炊きながら、野菜の下準備とか、作れる量は作ることになったんです。

午後の紅茶で洗って炊いたお米は、ほんのりと午後の紅茶の匂いがしました。

まあそれはさておき、そうしてとにかく足りないが故の努力を大量にして、コンソメを買い忘れたので代わりにカラムーチョを入れたスープなども作りました。

そうしてできた食事は、とても美味しかったんです。

作る過程が一番調味料になる

カラムーチョのスープや油の多すぎるアクアパッツァ、甘い匂いのする炊き込みご飯から炭化したジャガイモまで、様々なものを食べました。

どれも、忘れられないほどの美味しさでした。

何より、自分たちで頑張って作り上げたこと、意図はしていませんでしたが必死の工夫が組み込まれていて、また大自然の中で笑いながら食べたこともあって、一生忘れられない食事になったんです。

高級料亭に入って食べた味とは比べ物にはならないとは思いますが、自分の中で思い出に残るであろう味になったんです。

このキャンプで思ったのが、「食事は味よりストーリー」。

今までに作って食べた食事のことは、ほとんど覚えていません。

あと、ちょっとした贅沢で外食に行ったときの味も、あまり覚えていません。

下手をすると、結構高級なお店に行った時の食事に関しても、連れられて行ったからか、あまり印象に残っていません。

けれども、今でも鮮明に覚えている食事はたくさんあります。

さっきのハプニングに見舞われたキャンプ飯や、熊本県で食べたあか牛丼、就職で友人と別れてしまうので最後の記念だと食べたうに丼など、今でも忘れられない食事はたくさんあります。

あか牛丼は熊本で平日の確か9時頃に並んで2時間待つというアクロバティックなお店でしたが、自分たちで最高のものを探して言ったことも相まって、そしてそのときのあか牛丼が美味しすぎて、九州で一番おいしいものは? と聞かれたら即座に回答するほどです。

北海道で食べたうに丼も、これから最後の別れになるのだと思って色々探して、本当に現地でしか食べられない、もちろんうに丼自体は食べられるんですが、新鮮過ぎて味が全く違う、究極のうに丼を探して食べに行ったことも、忘れられない思い出になっています。

逆に言うと、こういった食事以外って、あんまり覚えていないんです。

こんなことを言うと冷徹に聞こえるのかもしれませんが、友人とふらっと行く食事にはあまり価値がないと思っていて、比較的どうでもいいと思っているのでメニューを見て数秒で決める傾向があります。

食べたこと自体は覚えているんですが、そして美味しかったであろうことも覚えているんですが、感動まではしないので心に残らないんですよね。

そう思うと、「料理は愛情」というのは間違っていないくて、「その料理のためにどれだけのエネルギーを注ぎ込んだか」すなわちストーリーがどれだけあるか、が重要だと思うんです。

実際自分が今までで覚えている食事というのも、熱量をかけて探したお店や記念日、イベントごとや図らずも頑張るしかなくなった食事に関して、良く覚えています。

ということもあって、普段の食事は節制して、「ここぞ!」というときに全力を出すタイプでした。

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