実は文章を読めていない、ってことがほとんどなんです
●実は文章を読めていない、ってことがほとんどなんです
どうも、早乙女です。
今回は、実は文章を読めていない、ってことがほとんどなんです、というテーマでお話しします。
音声はこちらから。
簡単な文章が実は読めていなかった

あまり大したことではないのですが、ボードゲームから真理に気づいたことがありました。
インサイダーという赤い目が特徴的な外装の面白いボードゲームがあります。
このボードゲームでは「Yes」or「No」で答えられる質問をしていって、お題を絞り込んで当てます。
例えば「それはコンビニで買えますか?」「それは手のひらサイズですか?」といった質問を何度も繰り返して、最終的な答え、例えば「トマト」や「割り箸」といった答えを当てるゲームです。
そしてここで面白いのが、「インサイダー」という実は答えを知っている1人をあぶり出すことなんです。
基本はそのお題っていうのが広すぎて、わかりにくいということがあるので、「インサイダー」が活躍することで答えの方に軌道修正がされて、段々近づいて答えが当てられる、ってイメージです。
例えば「ムー大陸」ってお題とか、ほぼ絶対当てられないじゃないですか。笑
ですので、答えを知っているインサイダーがインサイダーだとばれないようにしてお題を近づけていく、というようなゲームなんですね。
最後に誰が「インサイダー」かを当てる投票があって、ここで「インサイダー」の人が当てられてしまうと「インサイダー」の負けなので、「インサイダー」は他の人からバレないように活躍する、ということが重要になります。
このところで気づいた話で、「インサイダー」を当てるとき、最後に全員で「いっせーのせ」でインサイダーだと思う人を指さして、一番多く指さされた人をインサイダーだということで決着させていました。
しかし改まってよくよくルールブックを読んでみると、「インサイダー」のあて方が違ったんです。
まず、お題を言い当てた人、その例えば「トマト」などのお題を的中させた人が「インサイダー」か多数決をとります。
そしてその人が「インサイダー」ではない、となったなら全体投票になって、全員で一斉に「インサイダーだと思う人」を指差します。
という感じで、自分は「初めから全体投票」かと思っていたのですがそうではなく、「お題を言い当てた人がインサイダーか判断してから全体投票」と正確にはちょっと違ったんですね。
プレイングをスムーズに進めるには初めから全体投票でもいいとは思いましたが、始めに文章を読んだとき、「お題を言い当てた人をインサイダーか判断」の部分が無意識に抜けていたんです。
でも、実質やることは同じだとしても、始めに「お題を言い当てた人をインサイダーか判断」するということを知っていて、意図してその工程を省略して始めから全体投票をするのと、意図せず始めから全く気にしないで全体投票するのは、全然違いますよね。
まさに自分が「文章を読めていなかった」んです。
文章を読めない人は結構多い

橘玲さんの「もっと言ってはいけない」という書籍から知ったのですが、日本人の3分の1は日本語が読めないといわれています。
それによると、普通にできていると思っていることが意外に一般的に言はできていない、下手したら自分もできていないという現実があるということにビビらされます^^;
・日本人のおよそ3分の1は日本語が読めない。
・日本人の3分の1以上が小学校3~4年生の数的思考力しかない。
・パソコンを使った基本的な仕事ができる日本人は1割以下しかいない。
・65歳以下の日本の労働力人口のうち、3人に1人がそもそもパソコンを使えない。
ですね。
これが正直ありえないでしょ、とデタラメと思っていたんですがそうでもなくて、先進国の学習到達度調査PISAというところで調査された結果でも大体似たような話になっていて、本当にこのような現実になっています。
他にも新井紀子さんの「AI vs. 教科書が読めない子どもたち」という本でも、全国2万5000人を対象に実施した読解力調査でわかったことがあって、
・中学校を卒業する段階で、約3割が(内容理解を伴わない)表層的な読解もできない
・進学率100%の進学校でも、内容理解を要する読解問題の正答率は50%強程度である
・読書の好き嫌い、科目の得意不得意、1日のスマートフォンの利用時間や学習時間などの自己申告結果と基礎的読解力には関係はない
といったように、本当に「日本語が読めない」というのが日本人の3分の1もいるんだと思わされています。
でも本当にそうかよ? とも思ってしまうと思うので、「AI vs. 教科書が読めない子どもたち」から例題を引用させて頂きます。
音声なので趣が変わってしまいますが、一応話します。
仏教は東南アジア、東アジアに、キリスト教はヨーロッパ、南北アメリカ、オセアニアに、イスラム教は北アフリカ、西アジア、中央アジア、東南アジアにおもに広がっている。
では、オセアニアに広がっているのは?
本当にこれだけの問題なんです。
特にひっかけとかそういうことではなくて、本当に単純な問題ができない、ってことがあるらしいです。
注意して読めば、きちんと文章を読めば分かりますが、答えはキリスト教です。
なんで3分の1もの人が間違えるのか、正直分からなかったんですが、インサイダーゲームで文章が読めていない、ルールを間違って把握していたことに気づいたとき、その理由が良く分かったんです。
雑に読んでいるからじゃないか、ってことです。
文章をゆっくり丁寧に読めない病

TwitterやFacebook、youtubeやTiktokでは「分かりやすい」文章、分かりやすい動画が好まれます。
Twitterは特に分かりやすくて、140文字制限がありますよね。
そうなると短い文章でスパッと伝えられる必要があります。
ニュースでもそうで、基本は短い文章でまとめられていますし、まとめ記事も短くまとまっています。
短い文章で、さっと読める、電車の待ち時間など数分で読み切ることができるような簡単な文章ばかりに触れているんです。
で、そこに書いてある文章がとてもいいかと言われるとそうでもなくて、中身は基本どうでもいいことばかりで、内容が100%理解できなくても正直困りません。
ニュースを読んでよく思うのが、因果関係の説明がほぼなくて、「あの人はこうだと言っている」と中身が合っているかあっていないかは脇に置いておいて、ただ読みやすいとか、興味を引く内容が書いてある、という感があります。
正直、書いてあることがどうでもいいことばっかりなんですね。
そういった文章をずっと読んでいるとどうなるかと言えば、「雑に文章を読む」クセがつくと思うんです。
先ほど例に挙げた文章も、じっくりゆっくり読めばわかる文章です。
しかしさっきの文章を制限時間3秒とかになるとどうしても雑に読まざるを得なくて不正解にならざるを得ないと思います。
「雑に文章を読む習慣」が身についていると雑に読んでしまう、斜め読みを自然としていて、すなわちテキトーに読んでいてですね、「オセアニアでは仏教でしょ」などと間違えて3分の1もの人が文章が読めないことになってしまったと考えています。
文章が読めないということではなくて、文章をざっくりとしか読めない、雑にしか読めないんじゃないかってことに気づいたんです。
丁寧に読んで正確に理解する

自分もこの文章を「きちんと読んで当てる」という認識ではなくて、3秒とか時間制限があったり、パソコンでネットサーフィンをしている最中に「ここでオセアニアは?」と聞かれたら、雑に読んで思いっきり間違えているんじゃないかと思ったんです。
音読できるかと言えばほとんどの人ができると思いますし、問題は読めないことではなくて、ただ雑に、テキトーにしか読めていなかった、というところが問題じゃないかと思ったんです。
まさに本に書いてあったのですが自分も読み違えていたというやつで、「内容理解ができていない」ということです。
これってなかなかにムズカシイ問題だと思っていて、文章を読むこと自体は簡単です。
昔の知識を引きずっているかもしれませんが、おそらく日本人なら識字率が99.9何%と高いですし、誰でも出来ると思います。
でも、文章をしっかり読んで判断することは、日常の態度から関わってくると思います。
それが一番の課題だと思うんです。
例えば本が読めないという人も、Twitterとか延々と流れるネットニュースなら文章を3時間でも何時間でも見れてしまうと思うんです。
それだけ文章が読めるなら、簡単な本なら読めますよね。
でも読めない、っていうのはまさに文章が読めない、雑にしか読めないってことなんです。
ただただ新しい情報、目新しい情報に目移りしてしまって、斜め読み、雑にざっくりとしか読めない体質になっていると思うんです。
日本のマンガ文化といったことも関係があるのかなぁと思っていて、マンガも文章はほとんど読む必要がなくて、大体絵が補完してくれますよね。
要は要はざっくり分かれば大丈夫、になっていると、文章を表面的にしか理解できずに長い文章を読めなくなる、ということなんじゃないかと思うんです。
ネットでは特にそうなっていて、簡単な文章、分かりやすい画像、もしかすると動画になって、きちんと読まずに済んでしまう。
そしてどんどん難しい文章から離れて、文章が読めなくなる、というメカニズムなんじゃないかと感じたんです。
それでもいい人はいいと思うんですが、それってどんどん雑に生きていくことになって、また他人から言われたことをざっくりしか理解できず、「器用貧乏」になって何もできない自分になってくると思っています。
例えば寿司を握ることだって、「四角に握ればいいんでしょ」と一般人の自分としては思いますが、現実にはもっと複雑な技術があって、寿司職人として10年とか修業をしているわけです。
回らないお店に行けばそこには美やおいしさといったものがあって、目には見えないものがたくさん詰め込まれています。
それがどうでもよければチェーン店でざっくりと機械でできてしまうわけです。
全く同じことをしていても、明らかに味が違いますよね。
でも、そういったこと、ビミョーな差に鈍感だと、ただ「美味しい」で違いも分からない、「これならチェーン店でいいや」みたいになってしまいます。
こうなってくると、感性が落ちてくるんです。
自分に全力ブーメランで突き刺さりますが、その「突き詰めたようなもの」がなく、「感性が落ちた状態」の人は世間一般と同じような、コピペのような人生になってしまうと考えている人間なので、どんどんつまらない人生になってしまうんじゃないかと思ってしまいます。
自分は数年前までそうでした。
それが嫌な人間なので、自分は文章が読める存在に、様々なことに丁寧に理解できる存在で、感性豊かになりたいと、改めて思いました。