●コミュニケーションリスクを考える・冷静に物事を受け止める
どうも、早乙女です。
今回は、コミュニケーションリスクを考える・冷静に物事を受け止める、というテーマでお話します。
音声はこちらから。
感情論が強すぎて、リスクが高くなっている現代
先日ちらっと見かけたニュースなんですが、「びしょびしょの4歳児、通り過ぎる大人 中学生は見過ごさなかった」なんて記事がありました。
とある中学生が歩いていると、大雨のなか傘も差さずに1人で歩いている女児を見かけました。
しかしまわりの大人は気にも留めずに通り過ぎていて、このままだと危ないと、引き留めたそうです。
女児は「頭からバケツの水をかぶったくらいびしょびしょ」で、体は冷たく、顔もこわばっていたそうで、着ていた上着を女児にかけて上げたそうです。
そして会話をしながら手を繋いで交番に届けて、無事にご両親のもとに引き渡されたそうです。
これをパッと読んでですね、「大雨の中大人は誰も声をかけずに無視するなんてひどい!」と思いました。
世の中は冷酷というか、冷たくなったなぁ、と思っていたのですが、ボーっと道を歩いていて、公園に1人でべそをかいていた子供を見て「あ、いや、そうでもないな」と思い直しました。
よくよく考えて欲しいんですが、自分が同じ立場に立ったとき、ずぶ濡れの女児に声をかけられますか?
自分は永遠の23歳だと思っているんですが、対外的にはいい年したオッサンの自分が声をかけて、周りの人に何か言われるとか、ロリコンとか、誘拐しようとしているとか、そうやって下手したら通報されます。
女児は両親がいなくてしかも幼いので、こちらが助けてあげようとしても、正確なことを言えるとは限りません。
タイミング悪く、両親が助けに来て「この人に連れていかれようとしたでしょ!?」と大声で叱るように言われたら、その子は訳も分からないでしょうし、「うん」と言ってしまうと思います。
そうしたら、両手に手錠がはまってますね。笑
善意から助けようとしたのに通報されて捕まって人生が転落するくらいなら、声をかけるなんてゼッタイにしません。
いやもちろん、そうならず感謝される可能性はもちろんあるんですけれども、どちらに転ぶか分かりません。
そう考えたら、人生が転落するリスクを冒してまで、子どもを助けようなんて思いません。
子どもを助けて何事もなく、感謝されて終わるのか、あるいは逆に子どもを助けたら周りの人に通報されて人生終了のお知らせになるのか、どちらかになります。
助けるという特に何もリターンもないことに対して、リスクがあまりにも高すぎて、結局のところ何もしない、が最適解になるんです。
関わらないことが一番のリスク回避になる
自分も昔、泣いている子供に声をかけたことがあります。
スーパーの買い物を終えて、外に出た時、大泣きした子供がそこにいたんです。
たまたま目が合ってしまって、こちらを見て泣いていたこともあって、かがんで視線を合わせて、「どうしたの?」と声をかけたんです。
「お母さんが~、お母さんが~」としか言わないので、迷子になったんだろうと思いつつ、まずは落ち着いてもらおうと笑顔で話しかけていました。
残念なことにですね、子供の扱いに慣れていなかったので、自分は頭をなでるとかはできず、どうしていいのかもよく分からなかったっていう状況だったので、おいしそうなものとか渡せばいいかなぁ、と思い子どもでも喜びそうな飴玉を渡そうとしました。
カバンを漁って見つけて、手のひらに飴玉を置いて、「はい」と子どもをなだめようとしました。
そのときだったんです。
「うちの子に何してるんですか!!」
ものすごい声量で怒られて、何が何だか分からないうちに目の前の子どもは抱かれて、連れ去られて行きました。
しばらく訳が分からずぽかんとしていたんですが、あの子どもの母親が来て、連れ去ったのだと気づきました。
でですね、客観的に見ればどこの誰とも知れないオッサンが子どもに飴をあげようとしていて、すごい怪しかったから急いで逃げたんだな、って思いました。
そう気づいたとき、正直「こっちは子どもが泣いているから助けてあげようとしたのに」とか「助けてあげようとしたのに怒るとかありえないでしょ」とか、ものすごくイライラしたんです。
こっちは善意のつもりなのに、怒られるとかあり得ないと思ったんです。
正論的にはそうですよね。
それから時間が経って精神衛生上忘れていました。笑
今振り返って、さっきの大雨でも女児に声をかけなかった大人を思うと、自分と同じように、トラブルに巻き込まれる可能性があると思えば、当然の選択なんです。
同性、似たような年齢、、、はあり得ないと思いますけど、そんな感じで「声をかけても自然、犯罪に繋がらなさそう」なら良いと思うんですが、自分のようなオッサンが女児に声をかけたら下手したら通報されて人生終了です。
リスクが高すぎて、手を出そうと思えないんですね。
あ、手を出そうって悪い意味じゃなくて、助けようとか、困っているから手を差し伸べようとか、そういうことを思えないんです。
現代は関わらないのが最適解
こういった例に限らず、人とのコミュニケーションはリスクがものすごく高まっています。
教師が生徒にきつくしかったら「体罰」なってしまうとか、
ビールの広告で水着の女性が映っているポスターが貼ってあったら「セクハラ」とか、
相手の間違いを注意したら「パワハラ」とか。
もはや間違いを正そうとしても、普通に生活しようとしても、リスクっていうのがそこらじゅうにあるんです。
もちろん、本当にヤバイ体罰とかセクハラとかパワハラは罰せられるべきで、実際そうなった例も多くあると思います。
けれども、それが拡大解釈され過ぎて、被害者がスゴイわがままになったといか、悪ふざけやワガママが通るようになってしまったように感じます。
さっき言ったような、ビールの広告で水着の女性が映っているポスターが貼ってあったら「セクハラ」とか、そんな馬鹿な、って思いますか?
でも、それが現実にあるんです。
他にも、「救命のために男性が女性の服を脱がしAEDを使うことをどう思うか」なんて話題がありました。
いやまあ、ほとんどの人は緊急事態だし何言ってんの? バカじゃないの? と呆れると思います。
けれども残念なことに一定数、「男性に服を脱がされたくない」とか「それなら死んだ方がマシ」という女性もいて、助けた男性が責められる可能性もあるんです。
そうなって、自分が責められて自分の立場とか社会的信頼が危ういものになるくらいなら、倒れている女性を無視するのも、当たり前だと思うんです。
だって、関わってどっちに転ぶか分からない、でも関わらなかったら何もない。
だったら、関わらないが一番の最適解になってしまうんです。
こういった、コミュニケーションをとって危ないことになるリスクが高まりすぎていて、お互いにコミュニケーションをとらない、他人と関わらないのが一番良い、という結論になっています。
そもそも関わらなければ、ゼロリスクで済んでしまうんですよね。
ちょっと話が長くなりましたが、コミュニケーションリスクを考えた方がいいですよ、っていうことが1つ。
もちろん、仲が良いとか、お互いに知っている存在ならば全然問題ないと思います。
ただ、他人に対しては現代は東京砂漠のような状況になっている、ってことです。
もう1つが、冷静に物事を受け止めるということ。
女児が大雨でさまよっているのに誰も大人は声をかけなかった、となるとつい感情的に周りの大人はひどい! と思ってしまいます。
でもよくよく考えてみたら、リスクが高すぎて声をかけられないだけなんです。
そうやってニュースに書き方に流されないように、冷静に物事を受け止めた方が絶対にいいですよ、ってことです。