自分の常識と相手の常識は違う、だから寄り添い理解に努めるべき
●自分の常識と相手の常識は違う、だから寄り添い理解に努めるべき
どうも、早乙女です。
今回は、自分の常識と相手の常識は違う、だから寄り添い理解に努めるべき、というテーマでお話します。
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自分は豪快なのでチェックとかホント無理です

自分は繊細な作業、正確さを求められる作業がとてつもなく苦手です。
はんだ付け、と言われてピンとくる人はほとんどいないと思いますが、はんだ付けは半田という合金を使って、熱で溶かして溶接する、で熱が引くと固まって、電気的に繋がる、っていう作業があります。
このはんだ付けが仕事上必須なスキルで、結構やっていました。
仕事でやるんですがとてつもなく苦手で、周りに半田がとんでショートさせて壊したり、基板が熱で焦土と化したり、要は焦がしてしまうといったことをたくさんやらかしました。笑
昔よりは多少は上達しましたが、それでもまだまだ苦手です。
1005抵抗という1cmもない抵抗があって、周り、自分の会社の周りの人はつけられるのが当然のようですが、20%の確率でようやくつけられるかつけられないか、ドヘタなレベルです^^;
他にも絵を描くのが下手です。
テレストレーションというボードゲームを一緒にやったことがある人は分かると思うんですが、絵を描いていると、自分はめっちゃ下手です^^;
そのときに自分なりには精一杯やっているのですが、どうしても雑になって全然伝わらない絵を描いた人に贈られる「画伯」の称号を持っています。笑
あとは字が下手とか、千切りができないとか、とにかく繊細な作業とか、正確さを求められる作業が苦手なんです。
丁寧にやればできる、っていうのは分かるんですけれども、丁寧にやろうとしても”ざっくり”になってしまって、どうしてもうまくいかないんです。
大人になると字が達筆になるのかなぁと思っていたのですが、そうはなれませんでした^^;
こういった”個人の特性”レベルで笑って済ませられるなら良いと思うんですが、いや、仕事ではんだ付けはできなくて困っていたので大きな問題だったんですけどね^^;
それはさておき多くの人が当然のようにできている常識的なことができないケースもあります。
それができて当然だと、自分はそれをできるようにしなければならないというのが分かっていても、どうしてもできないケースがあるんです。
できないことはどんなに頑張ってもできない

例えば早起き。
一般的には目覚ましをかければ起きられると思いますが、目覚ましを5個とか、1時間前にタイマーをセットするなど様々な工夫を凝らしても、遺伝子的というか刻まれた本能というか、どうしても起きられない人というのは一定数います。
頑張ればどうにかなるとか、根性が足りないとか、工夫を凝らせばどうにかなるとかそういうレベルではなくて、本当にどうしようも起きられないんです。
そうして遅刻をし続けてしまう、一般的には”常識がなっていない”人というのができてしまいます。
本人だって遅刻が悪いことは知っているし、毎回遅れて本当に申し訳ないと思ってます。
そのために目覚まし5個とか、爆発音の目覚ましを使うとか工夫を凝らしても、どうしても起きられませんでした。
もちろん本人が怠けているだけで、「別に遅刻なんていいでしょ」と甘い考えの人なら話は別なんですけれども、本当にその人の性質的にできないことがあります。
自分の常識と他人の常識は違います。
自分にできることと他人にできることも当然ながら違います。
そして、その常識を相手に当然のように求めるのは、やっぱりダメです。
誰にだってできると思うことが、できない人もいる

みなさんって、道路を歩けるのは当然だと思いますか?
自分も当然だと思っていましたが、そうでもないということに気づかされました。
自分は以前鬱だったときがあります。
当時は鬱であるということにすら気づかずに会社に出社して、「常に眠い」とか「全然集中できない」という悩みを抱えながらもなぜか残業して働いていました。
明らかに自分の体調がずっと悪いことは分かっていたんですが、鬱だとは分かっていませんでした。笑
自分で自分の病気が分かることって、ほとんどないですよね。笑
で、自分の働く部署では鬱で3人ほど消えているなかなかにヤベーところでもあるんですが、「鬱は自分のコントロールが下手だから、ストレスの発散が下手だからなっているんだ」と思っていました。
鬱は自分のマインドが悪いんだと、一昔前のおっさん社員みたいに考えていたんですね。笑
当時の自分はなかなかにひどくてですね、冗談抜きで当時はそう思っていました。
しかし自分の体調がずっと悪い中、いつも通りに出社しているときのことでした。
自分は健康のためと家と会社を45分かけて歩いていました。
これが慣れてくると意外と歩けるものだと気持ち良いもので、しばらく継続していました。
しかし当時の軽いうつ状態、毎日が眠いとかずっと体調が悪い状態になると歩くことがしんどくなってきました。
これは自分の心が良くない、こんなん歩くだけなんだからいける! って無理矢理歩いていたんですけれども、やっぱり無理だ、という感じになってきました。
ですので次第に電車通勤にして、電車通勤で駅まで行くんですけれども、家から駅まで10分くらいあるんですがその10分歩くのも辛くなって、5分でバス停に着くバス通勤になりました。
本当に当時は「身体がおかしいこと」は分かっていたんですが、「疲れている」と思っていて、鬱だとは思っていなかったんですね^^;
身体がなんか動かない自覚はあったんですが、疲れすぎているからだと思っていました。
だから自分が悪いと思っていたので、体調を少しでも良くしようと、と言いつつ眠れない日もあありましたが睡眠時間は基本8時間、時間だけはきっちりとって、食事はきっちりと栄養を考えて自炊を続けて、運動もいつも以上に力が入らなくて、またやる気がないのも自覚はしましたが、必死に続けていました。
で、そんな生活をしつつ、ある日決定的な日が来ました。
朝起きて、「ああ、今日マジでムリだな」っていつも以上に最悪の朝でした。
起きた瞬間から疲れていて、鏡を見てもやっぱりげっそりしていました。
それでも会社にいかなければと我が身を鞭打って出社したんですが、バス停に着く前、5分歩く前にへたりこんでしまったんです。
いやもう、本当にびっくりしたんですが急に足が動かなくて、力が入らなくなってしまったんです。
その辺の柵にもたれかかって、ヤバイ、このままだと会社に遅刻すると、今振り返れば検討違いのことを思いながら、Uber Taxiでタクシーを呼んで出社しました。
出社できないのはヤバイ、という危機感がまず先にあったんです。
今思えば、真っ先に自分の体調を疑うべきでした。
それでも疲れすぎだろう、と思っていたのが悪かったですね^^;
そうやってその日からタクシー通勤になってしまったんですが、それでも出社を続けていました。
歩けなくなるのは自分のマネジメントが悪い、そう思って致し方なく往復タクシーを自腹を切って、タクシーを使って出社するようになっていました。
もはや5分歩けないのが日常になっていたんです。
そこまでなって、ようやく気づけたことがあります。
自分の常識は、他人の常識だとは限らないことです。
自分にできることが他人にできると思ってはいけない

自分にとって、その辺を歩けるのは常識でした。
ほとんどの人にとってもそうだと思います。
でも、鬱になって五体満足でも歩けないケースがあるのだと、身をもって知りました。
鬱だと身体が本当に動かなくなって、心が弱いとか、根性が足りないとかそういう問題じゃなくて、本当に「病」なんです。
自分の心の持ちようでどうにかなる問題じゃないんですよ、本当に。
そうなったからには治す、っていう気概がないと、身体をきっちり休めないと、やっぱり治らないんです。
そこまでなってようやく、自分の当然を相手に求めてはいけないのだと、強く思いました。
まあだって自分はその辺の道すら歩けなかったのに、「お前なんで道歩けないんだ!」ってそこを歩くように強制するのって、ただの残酷な仕打ちですよね^^;
また、鬱の人に「言い訳」だと決め付けてネガティブな意見を持っていたことに、本当に強く後悔しました。
全部ブーメランで自分に跳ね返ってきました。
なので、他人に「なんでこういった常識的な行動ができないんだ!」と一方的に見るんじゃなくて、他人の事情を慮って、相手のことを理解する。
それが「思いやり」で「人の心に寄り添う」ことだと思います。
それがあるべき人間の姿だと、自分は強く思っています。