親切とおせっかいの境界線はどこにあるのか?
●親切とおせっかいの境界線はどこにあるのか?
どうも、早乙女です。
今回は、親切とおせっかいの境界線はどこにあるのか?、というテーマでお話します。
音声はこちらから。
親切とおせっかいの違いとは?

これは、ふとした雑談で出た話題です。
電車でおじいさんが近づいても断られるのが嫌だから席を譲ろうとしないとか、階段で重い荷物を大変そうに持っていても、声をかけにくい世の中になった、というツイッターのツイートをよく見かける、という話になりました。
コロナの影響もあって直接話すことが推奨されなくなったということが1つの原因としてありますが、そうでなくとも人と人との関係がドライというか、とても冷たくなっている印象です。
といいつつ、コロナ前にもこの傾向はあったように思うので、他にも考えられる原因としては、SNSで様々な意見が発信されるようになって、そういった好意を受けたときの心無い言葉が原因でもあるんじゃないか、と話していました。
とある車いすの方で無人駅についたときに「バリアフリーじゃない!」と大騒ぎして全駅バリアフリー化を求めたみたいなヤベー人のことが少し思い浮かびました。笑
そんな極端な例でなくとも、実家に帰るといつ結婚するのか、みたいなおせっかいのように、親切でやったつもりの行動が全て良いことにならない、あるいは相手にとってありがた迷惑になる可能性がある。
と、「ありがたかったけれども、、、実は嫌だったんだよね」みたいな意見が大きくなって、全体で見たら小さいんですけれども、目立つ感じになってしまって、相手から拒否されるくらいなら行動しない方がリスクゼロなので何もしない現代になったんじゃないか、と話していました。
その話を聞いていて、親切とおせっかいの差は何か、を考えるようになりました。
親切とおせっかいの境界線はどこにあるのか? ということですね。
どこからどこまでが親切で、どこからどこまでがおせっかいなのか。
ぱっと思いついた親切とおせっかいの違いは、
・親切は自分が相手に対して良いと思う行動をすること
・おせっかいは相手が、自分の行った善意の行動を、過剰だと感じること
だと考えました。
親切とおせっかいは、他人次第にすると難しい

どちらもそんなに悪いことではなく、善意からくる行動です。
主体が「自分か、相手か」の違いです。
親切の一部が相手によっておせっかいになってしまう、という感じです。
でも、これはあまり適当ではない気がしました。
相手目線で考えると、親切とおせっかいの境界は、とても難しいです。
自分にとって相手への親切のつもりが、相手の受け取り方次第で親切になるかおせっかいになるかが決まるからですね。
おせっかいはおせっかいなので、相手にとってありがた迷惑。
できるだけ親切になるように相手と接したいですね。笑
けれども自分目線から親切なのかおせっかいなのか判断できないと、どっちになるかが分からず行動が止まってしまって、お互いに触れ合わない、接触をしない、話さない孤独な世界になってしまいます。笑
なので、自分から見て親切かおせっかいかを判定できないかを考えてみました。
親切とおせっかいの境界は、相手を尊重しているか

過去のあったことを色々振り返ると、意外と答えはあっさり出ました。
・「親切」は相手の価値観を尊重して自分が良いと思ったことを提供すること。
・「おせっかい」は自分が良いと思ったことをとりあえず提供すること。
という結論に落ち着きました。
自分の考える親切とおせっかいの境界線は、相手のことを考えるかどうかが境界線です。
経験上、相手からの指示は、緊急性がない限り「イラッ」とします。
たとえ善意であっても、相手から「こうしろ」といわれると、かなりイラつきませんか? 笑
毎回毎回イラつく訳ではありませんが、ちょっとピリッとする感じがあります。
「ホワイトボード消しておいて」でも「消しておいて」だと相手から指示される感覚があるとピリッとするように思います。
社会ヒエラルキー的に正しい上下関係、上司が相手で部下が自分だったとしても、イラっとするんですよね。笑
そのように、相手のことを尊重せずにテキトーに言うと、おせっかいや人間関係のヒビになってピリピリした関係になる、と推測しています。
さっきの話だったら「ホワイトボード消しておいて」は「ホワイトボード消してくれる人?」とか、言い方っていうものがあると思うんですね。
相手に「これやれ!」って言い方だと、あんまり相手との人間関係から良くないと考えています。
相手を考えれば、もうちょっと言い方って変わると思うんですよ。
他の例として、自分が一人暮らしをしたときに、両親が来た時がありました。
その時に、炊いた米を冷蔵庫に保管していました。
それを見た親が、「なんで冷蔵庫に米を入れてるんだ! 冷凍庫にしまわないと味が悪くなるだろ!」と大騒ぎしたことがあったんです。
親の発言は正しいとは思います。
味が悪くなるのだから、米は冷凍庫にしまうべきだ、と。
味を重視するなら、その通りです。
しかし自分にとっては、味っていうのはどうでも良かったんです。
言い方が悪いんですけれども食べれればよくて、「手軽さ、簡単さ」が一番重要でした。
会社に勤めていてですね、自炊をなるべく最短で終わらせることを第一に考えていました。
ですので米を冷凍庫に入れると解凍に時間がかかりますし、ちょっと面倒なんですよね。
またお昼ご飯としてご飯を持ち込んでもいたので、冷凍庫に入れると取り出してからお昼までに解凍しきらず、食べられなくなっちゃうんです。
前日に米を冷蔵庫に移せばよいというのはその通りですが、面倒で、忘れたら米が食べられくなるんですね。
特にですね、冷凍庫に米がしまわれてしまうと視界に米がないと思い出すこともなくて、結構忘れちゃうんです。
ということもあって、「手軽さ、簡単さ」を重視していて、合理的に判断して米を冷蔵庫にしまっていたんです。
それを相手というか両親はただ、「味が悪くなる!」とすごい大騒ぎして冷凍庫にしまうことを強制してきました。
それは、まさに自分にとっては「大きなおせっかい」です。
しかし、親にとっては、「善意」で「親切」でした。
自分にとっては、「大きなおせっかい」で「苦痛」でした。
相手の価値観に反するだけで、良いことには繋がりません。
相手のことを考えれば、「なんで冷蔵庫に米を入れてるんだ!」とは言わないはずです。
そりゃあ相手のことを否定したら反発されますよね。
少なくとも、「お米は冷凍庫に入れた方がおいしいよ?」から始まると思います。
相手はどのような思いでそうしているかの確認から始まるはずだからです。
ただ、相手のことを考えず、自分にとって良いことだと思うことを何も考えずに強制するのは、その人にとっては「善意」からの行動でも、相手にとっては「大きなおせっかい」で「苦痛」を生み出す可能性があります。
親切をするなら、必ず相手目線に立つこと

相手のことを第一に考えれば、「善意」から始まって相手にとって「親切」になるはずです。
そう気づいたとき、自分としては相手への接し方が意識的に変わりました。
相手に行動を強制することは、緊急事態を除いて一切言いません。
客観的に正しいことかもしれないですが、「おせっかい」になって「面倒ごとを押し付けられた」と感じられるかもしれないからです。
そのため、「この行動が、あなたにとっていかに良い効果をもたらすか」を説明します。
その効果を相手が「その通り!」と思うなら、自然と実践しようと思う。
相手からの指示では動かないけれど、自分で考えて納得したことなら動きます。
たったそれだけの違いで、相手の受け取り方は180度変わると思うんです。
だから、リーダーとして動くなら、いかに行動に繋げてもらうか、どうやって、したくてたまらない状態にさせられるかっていうのを考えるべきだと思っています。
相手視点に任せると「親切」と「おせっかい」の境界線はあいまいでどうしていいか分かりません。
けれども、自分視点で考えると、「親切」と「おせっかい」の境界線はとても明確に感じています。
「親切」は相手の価値観を尊重すること。
「おせっかい」は自分が良いと思ったことを提供すること。
それだけなんです。